2011年2月27日日曜日

救いの証とダヴァールで出会った『良き主』From 康史さん

私が初めて聖書を読んだ時、クリスチャンではありませんでしたが、その本が他の本とは何か違うということを感じ、驚いたのを覚えています。
福音書を読んでいるうちに、自分はとてもじゃないが、天国には入れない、神様、何とかして私は天国へ入りたいです、何とかお願いできないでしょうか、と、祈っていました。

そんな中で、中学 2年生の時でしたが、私の弟が、昼間に、友人と一緒にどこかに行くと言うので、どこに行くのか知らずに、一緒に出掛けて行きました。
こは、教会でした。
そこの牧師さんが、「イエスキリストは、あなたの罪を背負っ て十字架で死んでよみがえってくださった、それを信じるだけで天国へ行ける。」と話されました。私は、こんなにおいしい話があるのなら、と、何の迷いもなく信じました。
神様が祈りにこたえて下さり、天国に行ける道を教えて下さったことを感謝いたします。

しばらくたって、私は、「牧師さんはああ言ったけれども、聖書の どこにそれが書いてあるのかなあ」と思いました。
そんなとき、黙示録1:5「イエスキリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち」が目にとまり、救いの確信を得ました。
 
クリスチャンになってから年数がたってくると、通っていた教会の牧師先生の影響を強く受けるようになってきました。
特に、10代のころということもあったかもしれません。
その教えの中には、誤ったこともあるかなと思うようになってきました。
それからしばらくして、ダヴァール教会のメッセージを聞くようになって、特にそれを思うの でした。
そのひとつが、神様は、人を監視して、縛る感じの方であるということです。

しかし、ダヴァールのメッセージで、少し見えてきたのは、神様は私たちに良くしてくれる、祝福して下さる神様であるというものです。
また、「世を愛してはならない」という言葉を、私が取り違えて、何かに縛られるような印象を持ちました 。
自分らしさを失うことが、謙虚で清く貧しくて良いというような考え方です。
しかし、キリスト降誕時に、御使いが「地に平和(繁栄)」ということを言ったことを学びました。
神様は自分を縛り、監視して、自分が調子に乗ると躓きの石を前に置くと言ったような考え方をどこかでしていましたが、それは違う、神様は、おしみ なく、とがめることなく与え、すべてのものを豊かに与えて楽しませて下さる方であると学びました。
それらの言葉は、以前から知っていましたが、丸暗記的に、他人事のように感じていました。

初めてダヴァール教会に行ったのは、2006年の夏でした。賛美に確信と勝利があること、メッセージが本物であることを感じました。そこに行って、異言で祈ることは、クリスチャンであればだれにでもできることを教えられました。私も、そこで初めて異言で祈りました。
 
浅井先生が、私に「悪い思いが出て行きました。」とおっしゃったあと、人と接するときに、自分の目の前にいる人に対して、何のいやらしさも、探りも、裏読みもない自分に気付きました。
 
ダヴァールのメッセージを聞く以前には、どうしても、行きつくところは「神様は残酷だ、地獄を作って、悲惨を作って…、」でした。
しかし、ダヴァールで、神様は良い方であると学び、悪いものはサタンから来ることを学びました。3ヨハネ「すべての点でも幸を得、また、健康であるように祈る」、また、福音 書で、イエスさまが、来る人すべてを癒されたこと、マルコの福音書「病人に手を置けば癒される」、イエスのおことば「病気にかからず、健やかでいよ」、イザヤ書53章「彼は私たちの病を負った」・・・

すでに知っている言葉のはずなのに、わざわいのこともそうですが、病気一つとっても、病気は神様からは来ないと、今ま で気づかなかったのだなと思いました。
神様が私にしてくださった大きな恵みは、ダヴァールのメッセージを通して、神様のことが学べるということ、そして、神はひどい方、意地悪な方ではなく、良い方であると教えて下さっていることです。
 
 

1 件のコメント:

  1. 聖書が神様から贈られたすばらしい宝物であることを改めて実感させられました。

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